その当時A子は生後二ヶ月半であつた。体重三K八○G、身長五四糎、ひどくやせ、全く文字通り骨と皮ばかりと云つてもよいくらいであり、そのうえ大きな臍ヘルニヤがあつた、眼ばかりギヨロギヨロして、こんなに衰弱した乳児がはたして母乳から人工栄養で養育する事が出来るであろうか、一時あやぶまれた、親の乳首とちがつて哺育乳瓶のゴムの乳首を吸う事を知らない、A子ははじめ、ひもじそうに泣いた。しかし、保育者のたゆまぬ努力によつて二日目頃からなれて、時間はかかるがゴムの乳首で吸う事が出来る様になつた。入院後三ヶ月のA子は体重六K三○G、身長六○糎、標準近くまでおいつきつゝある、全く入所当時あやぶまれたA子であつたが医師や保育者達の献身的な愛の努力であろう。最近はつぶし粥をだいぶたべる様になつた。何にかわからぬ事を保育者にお話する様になつた。二、三日前、A子の母がひよつこりと訪ねてA子の生長ぶりを見て抱き上げると共に顔をよせて泣いた。嬉しかつたのであろうか、有難かつたのであろうか、どんなに夢みていた吾子の姿であろうか、幾度もつて再び吾子にほほずりをして去つていつた。社会の貧困の最も犠牲者になるものは、何時の世にも女と子供達である、この不安の中にあつて乳児のこの施設がどんなに大きな使命のあるものであろうか、きびしい世相にともすれば弱き者は打ひしがれてゆこうとする母子を真に守り得る施設こそ、社会悪のはびころうとする現状にあつて、一つの灯台の灯になるのであろう。一人の口を養う事は一人の生命を養う事である。それだけにこれらの乳児に出来得れば小学校までの生長に責任を持てる系統的な、例えば幼児院の様な施設が性要ではなかろうか。親の生活状態が子供の生長と共に好転すればよいが仲々うまくゆかぬものが多い。親の安定のない所へ、再びほうり出される場合又、もとの不幸がこの乳児達の上にふりそゝがれるのである。乳児院の発達と共に幼児院の設置こそ、今後の大きな児童福祉事業の一つの課題ではないでせうか。感謝のことばをのべて母は生甲斐を持(北海道立文書館所蔵)1159第1節 1950年代までの幼稚園・保育所の状況と乳児福祉の整備〱
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