そこで、当局と交渉する一方、市内の職場の諸託児所を手分けして見学し、資料(法的なもの、及び学内乳幼児、共稼数)を準備し、体制を整えるための努力を続けていつた。当局をやつと設得こうして当局の設置不必要論と組合婦人部の絶体必要論の状態が二三年続いたため、少しも進展していないような感じを学内の方々に与えたこともあつたようだ。しかし、私達のねばり強さにとうとう当局も折れて「具体的な案を持つて来て、相互に研究しようではないか」ということになつたのである。託児所としての場所の獲得をはじめ、多くの問題があつたため何としても婦人部の手だけでは間に合わなくなつた。男性も婦人のみの問題ではないとの理解の許に職組全体が協力してくれることとなり、三十二年度後期に託児所実行委員会が発足した。すでに獲得した場所の内部改造から施設課(当局)との交渉が始まり、一方教育学部の三宅、山本両先生をはじめ、今は亡き小児科の弘先生にも多大の御骨折りをいただき、遂に保母採用の運びまで来た。この時期は例の文学部藤井問題たけなわの時であり、託児所の交渉と共に執行部はじめ、婦人部もめまぐるしい忙しさであつた。しかし三十二年二月、当局も納得して保母二名の公募ということになり実行委員会は当局と交渉しながら具体的に内部の必需品を揃えはじめた。五月十五日には託児所着工の運びとなり、選定された保母さんと婦人部、実行委員会のメンバーで入所者の公募に当たつた。六月十九日、やつと私達の待望の託児所が開所した、完全ではないまでにも、ともかく私達の苦労が報いられた感激の日であつた。しかし、これからの園児の健康管理に当ることを喜んで引き受けられていた弘先生がその前夜亡なられたことは大変悲しい出来事であつた。園児はまつたくたのしげに保母さんに見守られて遊びはじめた。とうとう託児所は実行に移され、活動を開始した。今待望の開所1161 第1節 1950年代までの幼稚園・保育所の状況と乳児福祉の整備
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