文化活動の変化と課題〔サークルの存在価値の再認識空知労組〔人名〕〕まづ労組創立当時を、ふり返って見よう。戦争という「暗い谷間」が長い間文化の空白をかこってきたが、終戦とともに、一時は虚脱放心の状態もみられたが、ヤマは一年を経ずして清新の気があふれ、ドン慾なほど文化を吸収する動きとなって、それが各種のサークルを簇出させる結果ともなったようだ。その中でも目覚しい活動がみられたものとして、綜合リ 文化誌「硑ズ山」を発行(活版印刷一九集まで発行)した空知文学研究会、この中には詩、短歌、俳句、それぞれの集団があり、個別的な機関誌を発行していた。楽団「新響」の誕生、劇団「若人」の公演から地区大会の優文化活動の課題日本炭鉱労働組合『月刊炭労』七六号一九五六年九月勝。その他墨友会、美術研究部(油絵、写真、書道)、読書サークル、弁論、演劇、映画鑑賞会、フォーク・ダンス、囲碁、将棋、麻雀、釣魚、謡曲、菊花など、体育サークルを含めると三十七団体が、終戦後の一、二年間に組織された。しかも、これらに参加している人たちは組合員二千余名(当時の実態)に家族を含めたにせよ、同一人にして、幾つかのサークルの主要なメンバーとして活躍をし着実な素地を築いてきた。まさしく、終戦直後から~二十五年頃までのサークル活動は、ボタ山の不毛の地肌に核子の萌芽を簇出させるにもひとしく、絢爛たる活動がなされた。このように、苦難な時代に、無から有を生んだ当時の状勢を、次のように分析している。1 を刺戟、促進させ、活動させた。2 当り十円(現在は七円)を獲得していたため、比較的文化面に重点的に投入された。(綜合文化誌「硑山」文化を慾した当時の人心が期せずして各自の創造力当時、ヤマでは会社との協約で、福利厚生費がトン29 153第2節 高度経済成長期の炭鉱の生活(2)
元のページ ../index.html#169