北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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会、映画、パチンコ、麻雀、社交ダンス~一杯屋等が、154サークル活動の前進を阻んだ。2 た。同時に一般にもサークル活動に対する情熱に水が注がれた。3 大量首切で、主要なサークルメンバーがヤマを去ったし、文化費の切詰めともなった(福利厚生費はトン当り七円となった)。綜合文化誌「硑山」は休刊の己)むなきに至った。但しこれは後に復刊した。4 つぎつぎとヤマを去り、そのバトンを継承する(但し一部分ではあったが)サークル指導者がなかった。このように、サークル活動を一瞥すると、真の活動期は終戦後、前半の五年であり、後半は衰微の一途を辿ってきた。(最近に至って、ようやく全般的に盛り返してきたことは青年婦人組織の確立がなされたためであろう。)がこれによって補助をうけ出版された。)3 文学にせよ、演劇、音楽にせよ、文化にうえていた当時の人心は、よくこれらを吸収してくれた。4 全国的な食糧難から、終戦後炭坑に入ってきた知識人を組合員として抱擁していた。一面にはこれらがサークル指導力となっていた。5 レッド、パージ以前は青年婦人の活動は何物にもわずらわされず積極的に行われた6 その他 省略終戦後から一時に燎原の火のように燃え上がった文化サークル(主として教養部門、学習、弁論、演劇、文学、音楽等)が二十五年以後逐次衰微してきたのは何が原因をなしているのであろうか!前項に述べたように、戦後の空白地帯を一時的に自立演劇や、創造文化によって穴埋めしていた。これが逐次商業文化に大衆は吸収されていった。1 大衆はドン慾であり、素朴なヤマの創造文化では食慾は満たされない。新らしく安易にして享楽できる機レッド・パージ以降、優秀な活動分子がヤマを去っ朝鮮戦争の後、炭界不況の余波は企業合理化の名の前述のように、サークル創設当時の有能な活動家が(ママ第1部 社会・文化 第2章 農山漁村・炭鉱の生活【炭鉱の生活】   

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