資料1は、この頃釧路に暮らしていた山本多助(一九〇四~九三)の下に残されていた葉書で、社団法人北海道ア資料2は資料1と同じ時期の『アイヌ新聞』の記事であり、アイヌ協会の機関誌『アイヌプリ』創刊の動きを報じて日本の敗戦直後の一九四〇年代後半は、社団法人北海道アイヌ協会の創設(一九四六(昭和二一)年)や高橋真(一九二〇~七六)による『アイヌ新聞』の刊行(同年)など、アイヌ民族による社会的な活動や言論が比較的活発な形で現れた。ここでは、その中の北海道アイヌ協会「文化部」の活動を伝える記録(資料1、2)と、地域において自らの生活基盤を自分たちで築き、支えようとする活動の記録(資料3、4)を取り上げた。イヌ協会が「役員会」において「協会機関誌」の創刊を決定したことを伝え、その原稿を募集する旨を伝えている。いる。創刊予定時期や原稿締切の日程からみて、資料2は資料1の原稿募集を踏まえた記事と推定できる。ただし、現在のところ『アイヌプリ』の刊行は確認できていない。北海道アイヌ協会の機関誌として今、知られるものは、一九四八年に刊行された『北の光』一号のみであり、その内容は、資料1の「記」に挙げられているものも見られる一方で、元道庁職員喜多章明(一八九七~一九八六)による文章も多く見られるものになっている。北海道アイヌ協会の文化活動解 説 第一節 戦後改革・制度整備期の生活と文化213解 説(1)
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