であるが、当時の記録文書に基づくものと推測される。このころの支部活動に携わった富菜愛吉(一九一六~二〇〇三)による回想談(「北海道アイヌ協会浦河支部創立当時のこと:富菜愛吉」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第九号、二〇〇三)でも、この活動のことが語られている。資料4は、一九四六年六月発行の『アイヌ新聞』第一号が伝える、各地の活動の様子である。なお、『アイヌ新聞』の号数は、同年五月発行の資料2が「五号」で、六月発行の資料4が「一号」となっているのは、資料4から発行者が「アイヌ新聞社」となったことによると考えられる。戦後における千島、樺太、「満州」などからのいわゆる引揚げの歴史は、北海道の戦後史にとって大きな意味を持つ出来事であり、その記録・記憶の掘り起こしと継承は、現在もなお重要な課題であるが、その中でも、樺太、千島の先住民族が歩んだ歴史については、残されている記録も少なく、問題の所在そのものが社会の中で共有されているとは言い難い。例えば「引揚げ」という語は、北海道以南に出自を持つ日本社会のマジョリティにとってはそのとおりであったが、樺太や千島列島が郷土である先住民族にとっては、日本の敗戦によって、いわゆる地縁の無い北海道以南への移住の決断を迫られることになったのであって、その労苦は相当に厳しいものがあったこととあわせ、「引揚げ」として一括することでこぼれ落ちる問題が多いことをまず断っておかねばならない。この移住を当事者の多くが「引揚げ」と語ることには、実際には自分たちもこの社会の正当な構成員であるはずだ、との想いがあると受け止資料3は、北海道アイヌ協会浦河支部及び荻伏支部の活動を伝える記録である。出典となった資料については不明アイヌ協会支部の生活基盤支援事業サハリンからの「引揚げ」214第1部 社会・文化 第4章 戦後社会の中のアイヌ民族の生活と文化(3) (2)
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