に伴い集落は〝消滅〟し人々は移転したとの認識が和人の中に広がり、長い間にわたって、行政上の統計では、札幌市にはアイヌ民族は居住していないことにされていた。しかし実際には、就職や進学による転入も含め、札幌市域では多くの人々が暮らすようになっていた。一九七〇年頃に札幌市やその近郊に暮らすアイヌの人々が、北海道ウタリ協会の石狩支部(のち札幌支部)の結成を目指して札幌市に折衝したとき、当初、札幌市は、札幌にアイヌ民族は居住していないとの認識から戸惑いを隠せなかったという。な影響を与えてきたことに触れた。資料10は、そのような時代の中、日高地方平取町の二風谷に生まれ育った萱野茂(一九二六~二〇〇六)が、道外の「学校回り」として、伝統的な芸能などの披露や民具の紹介・販売に従事したときの記録である。時期について明記は無いが、おおよそ一九五〇年代半ばから後半にかけてのことである。この時期、このような形で道内外を巡って芸能などを披露する興行が他でも行われていたことは、同時代のアイヌの人々の回想や、興行を見聞した道内外の人々の記憶、当時の新聞などの記録で多く見ることができる。萱野茂は、そのような興行の一つに参加しつつ、自身の参加については、注意深く「旅費はわたしが工面する」等の自立性を留保してこれに臨んだ。それでも萱野は、「ずるがしこいシャモのわなにかかって」自分を含む一行が多大な損失を負ったことを率直に省みている。このような詐欺まがいの興行については、当時の新聞でも幾つか報じられており、萱野たちの経験は、決して稀なことではなかったことがうかがえる。して認識する意識の貧しさがうかがえる。萱野茂は、この事業に携わることで、そのような社会の現実に直面し、実資料7、資料8において、いわゆるアイヌ研究が、アイヌ民族に対する社会の多数者からの関心・まなざしに大き資料10からは、当時の日本社会におけるアイヌ民族に対する認識の貧しさ、特に同じこの時代を生きている人々と多数者の「理解」を求めて218第1部 社会・文化 第4章 戦後社会の中のアイヌ民族の生活と文化 (2)
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