北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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文化保存対策協議会」の成果の一部は『アイヌ民族誌』(一九六九年)の刊行につながり、道教育委員会の事業は、その後文化庁の補助事業として、口承文芸筆録ノートの翻刻・訳注や伝統的生活文化の聞き取り事業が実施され、毎年の報告書の刊行に至っている。このようにして、いわゆるアイヌ文化やその担い手とされる人々に対して、行政などによる顕彰、記録・保存が進むようになった。ただし、それは依然として伝統文化として認定されたものが中心であり、その判断・選択は行政や学識者の側が主導権を持つ状態が続いた。アイヌの歴史や文化は、まずもって誰のものなのか。資料10や資料11において萱野茂や吉田菊太郎らが目指したものと、資料12~15における事業の理念との間には、なお乖離や齟齬があったた声である。当時、北海道の社会のあちこちで「北海道百年」がうたわれていた。それらは、ときにアイヌ民族を「先人」に含めて唱えられる場合もあったが、「百年」をめぐる議論のほとんどはその「百年」を「人跡未踏の原野を開拓した」と語ったのであって、アイヌについては「慰霊」といった言葉がかけられることはあっても、その「百年」のなかでどういう歴史を歩んできたのか、その認識は大きく欠落するか、又は『新北海道史』ですらアイヌ民族を「開拓」の障害だったと述べるほどであった。資料16①は、そのような状況への疎外感を率直に表明しつつ、決して多数者に対して敵対的ではないかたちで、「忘れないで」と訴えたのである。この投稿は、アイヌ民族のみならず、「北海道百年」への違和感を持った人々の共感を得るところとなり、この頃から広がったいわゆる北海道の民衆史運動の中に、アイヌの歴史を積極的に位置付けていこうとする動きに刺激を与資料16①、②は、そのような乖離や齟齬が、北海道の歴史に対する認識のあり方を巡って顕在化した例である。資料16①は、一九六〇年年代後半に道が進めていた「北海道百年事業」を巡って、ひとりの若いアイヌから発せられ北海道百年事業等を契機とした動き   221解 説(4) 

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