北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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えた。しかし、先住民族の歴史を傍系視するような和人中心の歴史認識はその後も根強く、一九八〇~九〇年代においてもなお、道内の市町村では、〝わがマチにおける最初の移住者の入植から○○年〟をもって「開基○○年」とする事業が散見される状態が続いた。資料16②は、このような事態に対して、社団法人北海道ウタリ協会が、一九九八(平成一〇)年に道内市町村長に宛てて、アイヌ民族の歴史についての「十分な配慮」を求めた依頼文である。一九七〇年代に入ると、資料10や資料11のようなアイヌの人々が、自分たちの文化を自分たちで記録し伝えようとする取組や、資料16①のように自分たちの歴史、自分たちの存在そのものを社会がよりしっかりと認識することを求める声は、自分たちの歴史や文化を自分たちで取り戻すことを目指す動きへとつながっていった。書である。自分たちは学問の単なる客体ではないことを述べ、自分たちには「知るべき権利がある」「自らの手で民族の歴史を書き残す時だと信ずる」と、会の目的を掲げている。て設立された「アイヌ文化伝承保存会」の「設立の趣意書」である。同会は、社団法人北海道ウタリ協会や旭川アイヌ協議会などのアイヌ民族の団体にも協力と賛同を得て発足し、その後財団法人となった。自主事業のほか北海道教育委員会等の補助を得て民族文化の記録・保存などの事業に取り組んだ。なお二〇〇八(平成二〇)年、後述するアイヌ文化振興法に基づき設立された財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構(現公益財団法人アイヌ民族文化財団)の事業展開などの中で同会は解散、その事業は北海道教育委員会などに引き継がれることとなった。一九八〇年代になると、こうした動きが更に各地で見られるようになり、行政の支援・関与も増えるようになった。資料17は、山本多助らが中心となって組織された「ヤイユーカラ・アイヌ民族学会」が、その設立目的を記した文資料18は、浦河出身で競馬界でも活躍した小川佐助(一九〇五(明治三八)~一九八七(昭和六二))らが中心になっ第三節 伝統文化の「保存」から「学習」「継承」へ222第1部 社会・文化 第4章 戦後社会の中のアイヌ民族の生活と文化    

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