北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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資料19は、胆振地方白老町で「ポロトコタン」の運営に当たった白老民族文化伝承保存財団(後の財団法人アイヌ民資料20は、一九八七年度に日高地方の平取と旭川市とに、初めて公的な補助も受けて開設されたアイヌ語教室につ族博物館)が「アイヌ民族資料館」を建設するに当たって、同財団の広報誌に掲載した記事である。この資料館はのちアイヌ民族博物館となり、運営する財団法人もその名称を「アイヌ民族博物館」とした。アイヌ民族博物館は、財団法人内に学芸課を置き、専門の学芸員らのスタッフを複数擁する、アイヌ文化の専門博物館としての性格と役割を有し、一九九一年の平取町立二風谷アイヌ文化博物館の開設や、九四年における北海道立アイヌ民族文化研究センターの開設までは、唯一の存在でもあった。同館は数々の企画展示や調査事業、海外交流事業などを実施し、その後の博物館・研究機関の先駆的な役割を担った。その後、二〇一八年をもって財団法人アイヌ民族博物館は解散して現在の公益財団法人アイヌ民族文化財団に継承され、博物館としてのアイヌ民族博物館が収集した資料は二〇二〇年度に開設された国立アイヌ民族博物館に引き継がれた。いて、平取町二風谷アイヌ語教室の初代運営委員長を努めた貝澤正(一九一二~九一)が、教室開設二年目に当たる八八年五月、同教室の広報誌に期した文章である。二風谷のアイヌ語教室は、萱野茂が、アイヌ語を自分たちのもとに取り戻すことを願い、幼いころからアイヌ語を教わる機会を設けたいと考え、地元にアイヌ語を教える保育所の設立を企図、しかし諸般の制約のもとで私塾のかたちでアイヌ語教室を開設することとなり、このアイヌ語教室とその活動がもとになっている。このアイヌ語教室は、その後北海道ウタリ協会の事業として道内各地に拡がり、一九九〇年代には最大一四地域で開設され、九四年には各教室の代表が集まって共通テキストが編集されるなど、アイヌ語を学ぶことができる数少ない機会・場所の一つとしての役割を担った。一九七〇~八〇年代の動きの一つに、アイヌ民族史上の重要な出来事・人物に対する慰霊・顕彰の取組や、伝統的な儀式を継承・復活させることを目指した取組がある。前者では、早くから日高地方静内町(現新ひだか町)でシャ223解 説  

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