北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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5 サハリン(樺太)からの「引揚げ」の体験記録(抄録)〈一九四〇年代後半~五〇年代〉昭和二十三年(1948)、トロッコに乗せられ大泊へと向かった。落帆〔(現サハリン州レスノエ、著者である安部洋子氏の出身地〕は雪が降っていました。引き揚げの言葉は何十回となく聞いていました。五十五、六歳だった人は「頼むから置いていかないで」と村の人にお願いしてすがっていました。体が二つに折れ、松葉杖で一生懸命に毎日、歩行練習をしていました。しかし引き揚げの一カ月前に他界し、みんなの涙を誘いました。大泊から四角い箱列車に荷物のように乗り換えて真岡町へと向かって日本へ渡る船を待つだけだった。十月末〈中略〉サハリンからの「引揚げ」安部洋子、橋田欣典『オホーツクの灯り』編者注)二〇一五年とはいえ、もう雪が降っていて鼻水も凍る。そんな中、父はどんなに胃痛を我慢していただろう。真岡の収容所は何千人、何万人いるのか、座るたけのスペースしかない。少しでも隙間が空けば、隣の家族に取られてしまう。油断も隙もない。目だけぎらぎら、きょろきょろ、なにを謝らんやの様子だった。リュックサックを背負ったとき、初めてうれしさがこみ上げてきました。鉄の大鍋、祖父母の手作りの品々、大切なものは背負えるだけ背負って、がんばって持ってきたのです。最後の引き揚げになった私たち村人が乗ったトロッコは、山から丸太を運ぶ線路を走りました。真岡港へ向かう道すがら、この木や草花にもう会えないのだねと十五歳の少女の胸は痛みました。十一月一日、待ちに待った引揚船「雲仙丸」のタラッ    なった。「さあ乗船」の声とともに、かすかなどよめきプを踏みしめた。生まれて初めてのタラップだった。水兵さんはこれを上り下りしたんだ。不思議な気持ちにが起き、互いに顔を見合わせました。忘れ物をしないよ第1部 社会・文化 第4章 戦後社会の中のアイヌ民族の生活と文化(3) 230

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