うにと準備をします。乗船の指示が通達され、ほっと一息ついて乗船準備にいそしむ心境は、引き揚げ者のみしか知ることができない遠い道のりだったのです。「苦しきことのみ多かりき」という言葉そのままです。船に掛けられたはしごの手すりにつかまりながら、一歩一歩踏みしめて船内にたどり着きます。人一人分しかない場所にリュックサックを下ろし、苦しそうに顔をゆがめる父。「洋子、甲板に行こう」とうながされて上ると、今まで暮らしていた引揚収容所がだんだん遠くなっていきます。「洋子、しっかり見ておけよ」。父は真岡の港が遠ざかるのを悲しそうに見て、涙を何度も拭いていました。空気さえも凍てつくような静寂の中、昭和二十三年(1948)十一月に函館に上陸しました。一列になって、GHQの検査が始まりました。次の部屋ではDDTの白い粉を、髪の毛から衣類の中まで掛けられ、真っ白になるほど消毒を受けました。広場に集合し、柳行李や荷物が一つ残らず調べられました。中には幸い、見落とされたものもありましたが。てんやわんやのうちに検査は終わり、引揚者の集団は解散となりました。「お元気でね。お世話になりました」と挨拶を交わしてそれぞれの故郷へと別れていきました。函館上陸とともに、父は軍隊が使っていた診療所に移 し一緒に暮らしてほしかった。せっかく日本へ来たのだされた。末期の胃がんだった。「日本に着いたら」と言い続けてきた父は、安心とともに、激痛と闘いながら、日本に上陸して一週間で旅立ってしまった。十一月八日でした。「しばれて」いないリンゴ、干し柿を買いましたが、父は口にする力もなく、激痛と戦い、キリキリと歯をきしませながら旅立っていきました。五十三歳だった。今の世ではまだまだ若い年齢だ。くやしい。もう少から、医療が今のようであったなら、もう少し長生きしていただろう。ただ天を仰ぐだけだ。心から日本を愛した父は、君が代を歌うとき、いつも流す涙を拭おうともせず、天皇を拝しうやまっていた。落帆の神棚には菊の御紋の杯があり、私たちは遠くから見るだけで、手に触ることがなかった。全財産を捨てて第1節 戦後改革・制度整備期の生活と文化231
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