目指す日本上陸。マッチ箱のような引き揚げ者住宅…。戦争が終わり、引き揚げるまでの波乱のすべては想像を絶するものでした。こんな苦しみを再び繰り返させてはならないと願います。おばあちゃんは日本に来た日から、私たちに気を遣ってマスクをしていました。入れ墨が大きくてマスクの両端から出ています。おばあちゃんは自分でも鏡を見て笑っていました。芽室町の引揚住宅に住んでからも、誰彼となく物見見物されました。用がないのにわが家の前をうろうろしていた人も現れたとか。私は子守で四年間、家を離れていたので妹や弟から、この悲しい話を初めて聞きました。いわれない差別、迫害を受けたことが悔やまれてなりません。祖母もよほど気を遣っていたことでしょう。ご近所の方が遊びにいらしても、あわててマスクをかけるのです。祖母自身がいやがるのです。「ばあちゃん、同じ引き揚げ者なのだからマスクしなくていいよ」。お客さんは優〈中略〉しく気遣い、いろいろと話しかけてくれました。ばあちゃんも私も胸をなで下ろしました。「ね、おばあちゃん、もうマスクしなくてもいいよ」と言うと「そうか、おまえたち恥ずかしくないか」と気を遣う祖母に心痛みました。マスクをしている間は祖母の顔がピンクに赤らんでいるのが分かるのです。孫たちのためとはいえ、どれだけ我慢していたことか。おばあちゃんがかわいそうでした。こんな事なら日本に帰ってくるんじゃなかったと悔やまれる。次兄は、自分の骨箱を作って特攻隊に出陣する直前に、 昭和二十三年から二十四年(1948~49)のマッカすんでのところで終戦になりました。終戦があと一日延びていれば兄も、もくずとなっていたのでしょう。生きて会えたときの祖母の喜びようは、ことのほかでした。岩手県水沢の郵便局に籍を置いた運の強さもつかの間、ーサーのレッドパージで、あえなく無職となりました。兄さんは少しばかりの退職金で折鶴印の足踏みミシンを買ってくれました。わが家で唯一の宝物でした。私たち第1部 社会・文化 第4章 戦後社会の中のアイヌ民族の生活と文化232
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