6 ウイルタの「引揚げ」の体験記録(抄録) はさまざまな精神的、物質的苦しみを乗り越えて助け合って生きてきました。次兄のレッドパージで、私はどこへ職を探しに行っても断られました。ストーブに入れるまきもなく、裏山に行き、小枝や柏の葉を地面が見えるまで拾い集めました。炎が上がると「マッチ売りの少女」のように温かい気持ちになり、みんなで手をかざし落帆でのあたたかい光景を思い出しながら…。田舎町でも如才なく振る舞えたのは母でした。農家の 家族の多い我が家の子供たちは、農家の手伝いや子守に人たちに取り入り、仲良くしていました。何くれとなく野菜や麦、いなきびを仕入れてきましたが、着物類は消えていきました。北海道の冬が過ぎ、春の訪れとともに行かされました。洋裁学校に行く夢を持っていましたが、五百円の月謝を払うことができずたった三カ月で断念しました。働けど働けど暮らし楽にならずでした。家庭にもよるのですが、そのころの娘たちは、人身売買されるか、水商売に入るしかありませんでした。〈一九四〇年代後半~五〇年代〉戦争が刻んだ傷跡の上を、世相は日進月歩しました。美空ひばりが歌手デビューし、湯川秀樹が日本初のノーべル賞を受賞します。一般家庭にもミシンがぼつぼつ入り込んできました。こんな生活の中でも、時折、玄関先で近所の悪ガキが五、六人と集まってきては「アィヌ、アイヌ」とはやし立てます。弟や妹たちはしくしく泣きました。私は十七歳でした。大きな声でしかりつけてから悪ガキどもは来なくなりましたが、妹たちと一緒に泣いている自分が情けなくなり、「何か職を身につけきっと独立してみせる」、そんな気持ちでした。引揚船・興安丸で田中了、D.ゲンダーヌ『ゲンダーヌ 方少数民族のドラマ』一九七八年(北海道立図書館所蔵)ある北第1節 戦後改革・制度整備期の生活と文化233
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