北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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① 本州への講演の旅の前後の活動𠮷田菊太郎による、蝦夷文化考古館の設立とそもありません。幸いなことに、内地での評判がよかったものですから、こんどはわたし自身で興行団をつくり、二学期のはじまる九月にふたたび内地に渡りました。その資金はわたしが持っていた馬の親子を抵当にして借りた五万円でした。一行七人の巡業は、春の経験のおかげで好評を博し、二か月で借金を全部返済し、行った人たちの給料も払い終えることができました。払えるだけの金ができると、巡業をやめてさっさと二風谷に帰ってきたものです。しかし、何か月も家を空け、借金を返し、給料を支払ったので自分の稼ぎの金はなく、家内の顔をまともにみることができませんでした。わたしは、二、三日家にいただけで、すぐに山子の仕  に   山男よ、と自分に言い聞かせたものです。事に出かけました。千歳線から入った恵えわ庭岳のふもとの山奥でした。仕事の合い間に丸太の上に大の字に寝ころび、澄みきった青空からふりそそぐ太陽の光を浴び、山のさわやかな冷気に浴しながら、ああ、おれはやっぱりしかし、この学校巡りの失敗は、私に貴重な勉強をさせてくれたと思っております。それは、二風谷という社会だけでなく、世の中のさまざまな人間模様をこの目で確かめられたということです。さらに行った旅先の名所や旧跡を見物したり、博物館に行ったりして、視野がひらかれたということもありました。(北海道立図書館所蔵)三年前「アイヌ民族の生活状態が本州方面の人達に認アイヌ民族の 正しい認識を本州府県へ 今年も講演の旅幕別町の𠮷田菊太郎氏『十勝毎日新聞』一九五八年四月二五日11 第1部 社会・文化 第4章 戦後社会の中のアイヌ民族の生活と文化244

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