三〇年の変容概観読者のまど北海道農村医学の三〇年私は岩手県農村の出、盛岡中学で啄木の後輩、旧制弘前高校をへて東北大学医学部卒業、岩手医専の外科に就任、七年の後、旭川へ派遣されました。その病院はすぐに、組合病院となり、爾来二十五年間旭川で、農民の健康問題ととりくむことになりました。二十五年は真に激動の時代でした。戦前、戦中、戦後の三期を農民とともに体験しました。戦争直前から戦中は北海道の農村は殆ど無医村に近い状況となり、医療は荒廃し、大変な苦悩をなめました。組合病院はそのような背景の下に農民の自衛のために生れ農村医学の変遷道勤医協中央病院名誉院長 『北海道医療新聞』一九八一年三月一日ました。旭川厚生病院は地理的条件から約二十の施設の中でセンターの役割をひきうけました。戦時中は旭川の病院の責任は上川管内十八分院院所が含まれました。無医村はどんどん増加していました。そこで出張診療や巡回診療、保健婦の巡回で間に合わせました。旭川厚生病院では看護婦養成所、保健婦養成所で養成藤井敬三 任務が負わされました。職員、医師の応召は相つぎ、十名の医師が応召しました。即ちその後、私が留守を守って孤軍奮闘することとなりました。その間に旭川市外、三十五ヵ町村の農民の巡回診療を行い、農民の職業的疲労症を農夫症として提唱しました。医学界では賛否両論がありました故北大名誉教授井上善十郎先生の支援と、多くの農村医学研究者の仲間の応援によりこの研究に取り組みました。当時の北海道の人口三三〇万、農村人口はその四八%にあたる一五八万でした。今は、全人口五三〇万の一六%の八五万です。32213 第1部 社会・文化 第5章 保健・福祉・医療 (2)
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