北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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様々なイベントを実施しながら、別海町内外の人々を結集して今日も活動を続けている。近年ではアメリカ海兵隊が毎年矢臼別での演習を実施するようになり、海兵隊の演習反対を訴え、監視活動を行っている。資料11は、地主の川瀬氾二氏が支援者に送った手紙である。各地の平和運動や基地反対運動の人々との交流の場などで、川瀬氏は左翼的な言説も語っていたが、この手紙で、自らの抵抗の根拠を「ここにいたい」とまとめている。戦前から六〇年安保くらいまでの社会運動の中核は労働運動や農民運動で、これらは革新勢力との結びつきを持ちつつ、体制選択及び富の分配をめぐる闘争としての性格を有していた。しかし、安定成長へと向かうにつれ、それまでの社会運動が目指していたのとは異なる価値を追求する機運が高まることとなる。この時代になると、公害は経済成長のための必要悪ではなく、生活の質を高めるために克服しなければならない課題へと変化する。経済的な要求から生活の質の向上の追求へと舵を切りはじめたのである。現在はコープさっぽろと名称変更してその規模を飛躍的に拡大させている。そして、札幌市民生協の設立以降、全道の都市部を中心に生協の設立が拡がる。道内の場合は、炭鉱や工場の職域生協が市民生協へと転換したケースも多い。順調に規模と範囲を拡大していった生協であったが、一九九〇年代、全国の生協の経営状況が悪化、道内では一九九六(平成八)年に釧路市民生協が経営破綻、二〇〇三年に室蘭のコープクレアが自己破産、コープさっぽろも経営危機に陥る。その後、経営力強化のため、一部を除き道内の生協は合併し、コープさっぽろへと集約されて今日に至っ資料12は、札幌市民生協設立年度の総代会資料の総括文である。北大の教職員が中心となり設立された当生協は、職域生協から市民生協への転換第三節 「組織」の運動から「市民」の運動へ336(1)   第1部 社会・文化 第6章 社会運動

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