施された。それまで、問題・課題に対して批判や要求を行うという住民運動・市民運動のスタイルから一歩抜け出し、338望ましい未来を考え、提案する「オルタナティブ」な運動スタイルがここに登場した。なお、これら一連の流れにおいては、花崎皋平氏が果たした役割が大きかったことを指摘しておきたい。一九六五(昭和四〇)年に東京で誕生した生活クラブは、一九六八年に生活協同組合の法人格を取得、その後活動エリアを拡大し、北海道では一九七八年に母体となるたまごの会が発足、一九八二年に生活クラブ生協北海道が誕生した。生活クラブは異色の生協として有名だが、道内でも、一九八〇年代以降の市民運動の牽引役として存在感を示している。志向することが宣言される。資料19は、全国的に問題化していた合成洗剤による水質汚染を克服するための石鹸利用を求める直接請求について、その理由を組合員に説明している文章である。日常生活の不満を解消するための方法は政治にもあるということを、政治に縁遠い存在にされていた主婦に呼び掛けている。の立場を、投票により選ばれる代表ではなく、生活クラブ及びその志向性に共鳴する市民の意思を議会に伝達する「代理人」を議会に送り込むものである。同時に、この文章からは、政治の世界における女性の地位の低さに対する批判でもあったことがうかがえる。資料18は設立趣意書であるが、共同購入という方法によって、自分たちが望む「消費材」を創り出すことで変革を資料20は代理人運動について生活クラブ組合員に説明した文章である。首都圏ではじまった代理人運動とは、議員生活クラブ生協の理念第四節 「主婦」の社会運動参加 (1) 第1部 社会・文化 第6章 社会運動
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