事故をひき起すなど村民の不安と不満が蓄積された。「二万町歩を返せ‼」これが日農組合員に共通の要求となり、心ある村民の胸にひびきはじめる。Ⅳ 演習場に平和のかがり火―平和碑建設と第一回盆おどり大会一九六五年八月、白い母子像のレリーフを浮きだした平和碑が日農と釧路平和委員会の協力ですすめられ、矢臼別演習場のほぼ中央、杉野さんの用地に建てられた。一四日夜日もとっぷりと暮れた原野のまっただ中で平和碑の除幕式は行なわれた。敷地はなんと三五〇名もの参加者であふれた。シュプレヒコールは演習場いっぱいに響きわたり、引続き「平和碑建設記念第一回平和盆おどり大会」に移った。平和盆おどりは第二回第三回第四回と年ごとに益々多くの農民・労働者をあつめ、労働者―農民の連携は一層強化され、平和のかがり火は燃えつきることなく天空を焼きこがしつづけることだろう。(矢臼別平和資料館所蔵)予想されていたとはいへ降つてわいたような斗いに私 マ)マ は仕事をなげ出して参加しました。敵と正面切つて対峙するという斗いに参加したのは生れて始めての私です。R三〇は予定通り実射されたとはいへ私には敗北感は少しも残りませんし、あの斗いは力強いものを私の中に残しました。農民はアメリカがいたことに大きなシヨツクを感じているし村当局にしぶしぶながら中止要求をさせた(成果はなかつたが)ことなどで斗わねばならないと感じて来ていますし、確信をもって来ています。このことは私が合(つた限りでは私達の斗いをひやかし半分で見ている人が全くいないし、ご苦労さまでしたといつてくれる人もあって斗いはこれからだということをひしひしと感じます。此の斗いの中で私は重大なことを知りました。重大な川瀬氾二「三宅信一氏への手紙」(「矢臼別のたたかい 所収)一九六七年川瀬氏の決意375第2節 自衛隊・海兵隊と反対運動11 (3)」一九六七年
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