北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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表面的には白雪会もすんなりと百回を迎えたように見えるが、当時の時局は日を追って騒然としてきた。昭和十二年七月七日の日華事変以来わが国は長い戦争に追い込まれていた。現に百回記念の一週間前には、大平洋戦争に突入していたのであった。すべての物資は欠乏し、統制はあらゆるものの上に敷かれ、軍部に睨まれているらしい婦人公論は、頁数もぐっと減らされて、グループ通信などを載せる余裕もなく感ぜられたので、白雪会では十七年八月を限りに通信送りを止めた。ついに昭和十九年三月号を最後に婦人公論は休刊となった。そのうちに昭和二十年八月十五日を迎えた。今度の戦争に勝つとは思っていなかったけれど、敗けてみると口惜しくて泣いた。同時にほっとしたことも否めない。敗戦後十日目頃だったと思うけれど、誰言うとなく集まろうということになり、終戦後初めての例会を持った。人数はたった七人だったが、めちゃくちゃにおしゃべりをして別れた。次から古い会員も次第に会にも〈中略〉どって来て、「愛国百人一首」の講義もいつの間にか終末に近づいてきた。丁度講義の終った日が十月六日で、白雪会の創立十一周年の記念日と一致したので、手製の甘酒で白雪会の健康を祝った。敗戦の年も暮れようとするある日、月寒の米軍兵舎からアーサーと言う中尉が、中村という日本人の通訳をつれてジープで私の家へやって来た。瞬間どきりとしたが、話はクリスマス、イブに招待したいとのことであった。 「おまえ達のグループは極めて民主的な婦人の集りだと聞いている、白雪会のレディーを五十人招待したいから来てくれ」と言う。街ではアメリカ兵不信の声の最中だったので、二、三日返事を待ってもらい、慎重に協議の結果応ずることにした。今後の日米親善の一助にもなればと思い、友の会の上田歓子さんの方からも何人か出して頂いて人数を揃え、迎えのトラック二台で雪道を月寒に向った。日本のレディーを招待するのだから先方もジェントルマンであろうと、一同きれいな和服で行った。この何年来、私たちが見たことも食べたこともない立派    442第1部 社会・文化 第6章 社会運動【女性の人権を求める団体活動】

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