連日連夜悲しみのなかにも順を追うて遺体は納棺されダビにふされ、一体一体去っていくのであった。肉親に抱かれて故郷へ、わが家へと迎えられて永遠の旅路につかれたのである。毎日陰惨な空気に包まれている遺族にとっては一日も 早く遺体を発見し、ダビにして帰ることが緊急事であった。遺体数は揚収作業の進捗に伴って毎日ふえていくが、近郷を合せても火葬場が少ないため、いきおい遺族の気持はいらだってきた。野天火葬場も当局の思い切った計画と実行力でできあがり、新聞は早くから報道していたので遺族は待ちかねていた。ところが予定の時間になっても一向に火の手が上らない。予定の時刻はとうに過ぎた。遺族からの問い合わせがしきりとなり局へ問い合わせたが火葬場近くに住むN氏の猛烈な反対で手をつけかねているとのことであった。その間の事情を知った遺族は集団でN氏宅に押しかけ将に血の雨を降らさん勢いであったが、警察からの緊急手配で警備隊を派遣し、また、局から厚生課長一行が先んじて直接交渉にあたり事態はようやく円満に解決して、ことなきを得た。遺族になってみなければほんとうの気持は判らないと遺族のひとりとなった国鉄本社の関調査役もいわれたが、遺族にとってはこの場合、火葬は最も、切実な問題であったに違いない。事故直後に収容された遺体は、さながら生きているようで、仮眠しているのではなかろかと錯覚するくらい生ま生ましかった。最初のうちは引き取りの遺族も自ら手を下して遺体を清拭納棺するものが多かったし同伴のない遺族に対しては職員が専ら清拭納棺の作業を手伝った。しかし数がましてくるに従って職員の手だけでは追付かなくなり、この道の専門家をあちらこちら探し回ったが、誰も相手になってくれなかったし、折角きてくれても一日だけで後が続かなかった。一〇月一日になって臨時人夫の仲間から篤志家(一人はキリスト教信者)が二名清拭作業の申し出があったのでほんとうに救われた心地がした。二日には局の紹介で函館市の田中光子さんと五稜郭駅493第1節 占領下・復興期の自然災害
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