戦乱を逃れるべく北海道に引き揚げざるを得なかった。消息がつかめない教会関係者も多数出てしまった。戦後の混乱期をなんとか生き延びた人々は、北海道の厳しい自然環境下で更なる忍耐を強いられたが、昭和二〇年代の後半から三〇年代にかけて日本は戦後復興を果たし、更なる経済成長に向かうことになった。戦後の日本宗教を特徴付けるものは、神々のラッシュアワーとまで呼ばれた新宗教運動の活性化である。前節で述べた政教分離と宗教活動の自由が保障された社会において、人々は敗戦後の道徳やモラルの空白を埋めるべく、キリスト教会や新宗教に殺到した。特に、霊友会、立正佼成会、創価学会といった法華系新宗教は、それぞれ数百万人規模まで教勢を拡大した。特に、創価学会は既成仏教や諸教への激しい批判と熱心な布教活動で人々の関心を集め、創価学会の信者層が、同じく未組織労働者や自営業者を取り込もうとした共産党や組合運動(社会党の支援組織)と重なったために、両陣営は激しく対立した。て新聞記事なども賑わした夕張事件を伝える資料である。炭労側は、夕張のみならず三井三池でも同様の事案が出ていることから全国的な対応を決め、北海道の炭労と夕張支部でも対策を打つことにした。それに対して創価学会は全組織を挙げて夕張の学会活動を支援することにし、炭労側と創価学会の討論会が企画されたものの実施に至らず、創価学会の夕張市内でのパレードや決起集会などで対決は幕を閉じた。ために若手牧師を派遣した事業の顛末を回顧した記録である。北海道開拓伝道は、農村地域の開拓伝道を企図して若手牧師を派遣し、五年間給与(謝儀)を保障するかたちでゼロから信徒を集めて教会を設立させる計画だった。活動資料6①と②は日本炭鉱労働組合(炭労)がたてた新興宗教対策に創価学会が反発し、信教の自由や人権問題とし資料7①と②は、日本におけるキリスト教の最大プロテスタント教派である日本基督教団が、北海道の開拓伝道の第二節 経済成長期の教線拡大と葛藤533解 説
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