北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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どで聞いてみても、この旭川でのまつりが冬まつりの原点らしい。ただ途中で中断した期間があり、今の冬まつり形態で始まったのが昭和三十五年。ここから数えて今年で二十回目という訳だ。北海冬まつり旭川で冬まつりという声を上げたのは当時の旭川観光   • 建ち並ぶ買物公園も、当時はモノ不足で、時計屋さんが協会会長佐藤門治さん(故人)。新年気分の残る昭和二十二年一月初めのこと、会議所総会の席上だった。「戦争に負けてもう二年目。ちぢこまってばかりいてもしようがない。生活意欲を高め、みんなの士気を上げるような祭りをやろう」突然口火が切られた。今では大型店が魚や野菜を売っていた時代。「どうやってやる?」という驚きがその最初の反応だった。しかしこの奇抜なアイデアは、喜びや楽しみに飢えていた人々の心をとらえた。議員達も半信半疑ながら乗り気。さっそく会議所内に実行委員会がつくられ、名称は「北海冬まつり」とつけられた。しかし、モノもなければカネもない。何をやったらという壁にぶつかってしまったが、これを聞いた近文アイヌのしゅう長り)は、アイヌの神聖な儀式だが、祭りの役に立てば」と提案してきた。二月二十二日、常磐公園で古式ゆかしいアイヌのイオマンテが繰り広げられた。主役は神の使いの子グマ一頭。観衆三万人を前にアツシ姿のメノコたちが離別の歌と踊りを舞う。大盛況だった。旭川の冬まつりの方が札幌の雪まつりの先輩だ―旭川の人達が自負するゆえんがここにある。翌二十三年には市内の小中学校、民間会社の前に色々な雪像が出始める。二十四年には旭川市も祭りの主催団体に入り冬まつりパレードを実施することになった。選ばれた美人「冬の女王」を決めることになったが、応募は一人もなく困り切った市商工課は、自分の課のお嬢さんに白羽の矢を立てた。冬の女王第一号はこうして鈴木ヨシ子さん(当時十九歳=旧姓・品田)と決まった。川村カ子卜さんが「イオマンテ(熊まつ第1節 占領下・復興期のまつり581

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