北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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でしたが、参加している人も観客も市民皆が楽しんでいる様子を見て、こんなお祭りがある本家が羨ましく思いました。一通り見終えたとき(午後一〇時半頃)、今は亡き松本市長さんから「遠路本家へ来たのだから、お宮へ(津沢神社)お参りに行こう」と誘われ、夜遅いのに神職をお呼びになり、お参りさせて頂きました。そのとき松本市長が「どうだ、津沢の夜高まつり凄いだろう、沼田でやるのなら応援しよう。但しやる以上は北海道のあんさんがた、北海道一のあんどんまつりにするまで頑張るんだぞ!」其の一言で、「ハイ、わかりました、是非お願いします。」と私は手を出し松本市長と握手をしていました。祭りを見て興奮している一行の皆さんも同じ思いでしたが、帰りの上野までの列車の中では、誰もが無理かもしれないという不安感と、やりたいという気持ちの心の葛藤に揺れている様子でした。しかし、沼田駅に着いたときには、私はじめ一行の気持ちは固まっており、翌日から故山森さんをはじめ、多くの皆さんが祭りを実現するために駆けずり回り、町内各位のご理解を賜り、その年の九月九日、一〇日、商工会と農協の二基のあんどん山車で、念願の第一回夜高あんどん祭を始めることができました。その後、全町民参加のお祭りにすべく、山森さんと二人三脚で、役場、改良区、各学校、外全町の諸団体を回るなどした結果、年を追うごとに参加者を増し、祭りも着実に盛り上がり、第一〇回(昭和六一年)の夜高あんどん祭には松本市長を招くことができ、当時すでに北海道三大あんどん祭の一つに数えられる様にもなっており、市長もその盛大さを喜ばれ、「分家の皆さん良くやった」とお誉めの言葉をいただいた時は、本当に喜ばしかったことは忘れえません。残念ながら、その年の一〇月、松本市長は心臓病で急逝されましたが、あの年沼田町を離れる日「一五回にまた来るから、皆頑張って下さい」と元気に帰られた姿が今でも目に焼きついており痛恨の思いが残ります。葬儀には篠田町長と参列、心より感謝とご冥福をお祈り申しあげました。第2節 観光目的のまつりへの批判と新しいまつり595  

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