北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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料5は、一九七二年八月に開局した穂別町営テレビ(穂別町社会教育テレビ)に関するもので、社会教育部門での利視聴できたわけではない。無電灯世帯もまだ多数あり、たとえ電気が通っていても地形によってテレビの電波を受信できない地域も多かった。そうした難視聴解消のために登場したのが農村型CATVである。地上波放送を受信し、ケーブルテレビ網を使って各世帯に再送信するシステムで、NHKが助成したこともあり一九六〇年代に普及していく。自治体が経営するものと民間企業が経営するものがある。CATVはチャンネル数が多いため、単なる再送信にとどまらず、空きチャンネルを使用して自主放送をするCATVが登場する。資料5から資料7は、自主放送番組を発信した自治体の三つのCATVの試みを紹介している。資用を模索している。資料6は、一九七三年一月に開局した池田町営有線テレビ局に関するものである。初めて実施した視聴者アンケートの結果が掲載されている。資料7は、一九八九(平成元)年一一月に開局した西興部村CATVに関するもので、開局と同時に自主放送がスタートし、緊急放送にも活用されることが想定されている。タウン誌という言葉は一九七〇年代になって一般化したと言われる。高度経済成長期が終わり、「地域主義」「地方の時代」が言われた時期に、地域に根差した雑誌づくりが広がりを見せた。しかし、北海道において後にタウン誌として紹介される冊子には、一九六〇(昭和三五)年前後に創刊されたものも少なくない。『月刊さっぽろ』(一九五八年創刊)、『さっぽろまんてん』(五九年創刊)、『月刊はこだて』(六三年創刊)、『月刊おたる』(六四年創刊)、『旭川春秋』(六五年創刊)などがそれであり、郷土誌的な性格を強くもっていた。資料8は『月刊はこだて』の後継誌である『タウン誌・街』、資料9は『月刊おたる』、資料10は『旭川春秋』に掲載された文章である。そこからは、地元の郷土史家や小説家が中心になって創刊されていること、雑誌発行の背後には地元を愛する強い気持ちが存在するこ第四節 郷土誌からタウン誌へ609  解 説

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