ポンサーのこと、どれもこれもこれから、いったい何から手をつけたらいいのかお先真暗、といった状態が今から四年前の春三月の頃であった。しかしとりあえず有力商店主方の意見を参考にしなければならないので、専門店会の工藤さん、田村さん、小樽で原稿を集める場合、どんな線からいくべきなのかという点から郷土史家の越崎さん、詩人の萩原さん、本そのもののデザインのことを相談するためデザイナーの藤森さんと先達ということでわたしの友人でもある月刊さっぽろの当時編集長であった堀越さん、などに何度も集まっていただいてプランを練りに練った。そうした連日の中で噂とは早いもので全然見知らぬ市民が、仮事務所へ一丁ガンバレといった風の電話をよこす、なかには直接出向いて来る人もいた。〈中略〉樽都二十万の期待のうちにと書けばおおげさになるが、とにかく何万人かの期待のうちに創刊号が完成したのが六月二十四日の夜であった。準備にかかったのが二月の真冬、本のできたのが夏の六月、思えば長い長い五ヶ月間であった。創刊号そのものの出来映えについては、印刷屋の苦労のわりには表紙の色が弱かったり上質の指定がちがうなど意にそわない点はあるにはあったが、地元に始めて郷土雑誌が誕生した、それもあらゆる分野の小樽っ子の郷土繁栄を希う情熱の結集によって、六四頁の本が産ぶ声をあげたという事実の前には小さな不満でしかなかった。一冊出すごとに経費とも五十万円、たとえ収入がゼロでも十号までは続けなければと八方かけずり廻って用意した金もさいわい三年間もった。それから先は毎月の不足分を埋める金が無い。ついに月刊おたるも幕を閉じるかという時期から、ふしぎなことに共賛商社の加入が高まり通常の経営が始めて赤から脱っしたのである。まったくもって石の上にも三年である。 今号で月刊おたる五十号となるが、この五十号の足跡のもつ意味は、小樽にとっても大きなものであることは629第4節 郷土誌からタウン誌へ
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