五年七月から気動車に置換えられ、札幌、函館間を五時間で結び全車座席指定にした。特急列車の誕生戦前までは、小樽が道内商業の中心地として栄え、主要列車は多く小樽を中心に運行していた。しかるに戦後情勢の変化により、札幌を中心として運行するようになった。昭和三六年一〇月の白紙ダイヤ改正時から、室蘭本線が道主要幹線に格上げされ、函館、旭川間に室蘭本線経由初の特急「おおぞら」が誕生し、後数次にわたり、特急は増発され、特急時代を迎えるに至ったものの、この情況にも変化が訪れようとしている現在である。これも時代のすう勢なのだろうが、国鉄一筋に生きた者として寂しい限りである。(北海道立図書館所蔵)北の編集室『ふるさと十勝』五九号 「凍原」は終戦直後の昭和20年12月、焼け野原となった日本人の心に、いち早く自由と人間の素晴しさとを送り届けようと、帯広から出版された雑誌であった。価値 の反転と混乱の社会状況の中で、中央の「人間」(鎌倉文庫)や、「世界」(岩波書店)の出版よりも早く企てられたこの試み。内容の優劣は別問題としても、時代を先取りしたその足跡はやはり特筆される。また「凍原」は単なる雑誌の出版だけではなく、演劇、音楽鑑賞会、図書館など文化運動としての広がりを持った。戦時中の文化統制で制約されていた人間の情感の全てを、次々に解放していく先兵の役割も果したのである。推進力は当時の20代から30代の若い青年達。彼らは一団となって凍原を走り抜けた。ここでの活動が糧となっWHAT’S「凍原」?開基百年を迎えた帯広に、あえて終戦期動めいた青春群像を投影した理由。そのパトスを探る。一九八二年一月ふるさと十勝633第4節 郷土誌からタウン誌へ12
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