て、日本を代表するスペシャリストとなった人も数多い。「凍原」はそんな彼らの故郷なのでもある。時代は既に変わったが、その時代も今まさに変ろうとしている今年、帯広市は開基百年を迎える。そう古くはない30数年前に動めいた青春群像全てを、あえて「凍原世代」と把えてみると、的確に戦後帯広史の人脈も見えてくるのである。かくして「WHAT’S凍原」のテーマは見えてくる。未だ調べ尽せないことも多かったが、以下そんな試論を始めてみる。「凍原」のはじまり 「凍原」は、終戦直後から始まっているその行動のす早さにまず驚かされる。8月の終戦から1月も経たない9月には、創刊のための準備金集めをしていて、奉賀帳が残っている。金沢隆志が「北の話」に書いている凍原回想によると、やろうと決まったのは終戦直後だが、取材を総合していくと、戦時中から反軍国主義的な考え方が、凍原の中心メンバーとなった帯中〔(現帯広柏葉高等学校〕15期生の間にはあったようで、そうした心の準備は既に出来上っていたらしい。若者が中心となっただけに、そもそものきっかけは茫として定まらないが、大ワクを区切ると、現在音更町に住む金沢隆志、藤丸社長の藤本善雄、北大法学部教授の山畠正男、明治大学法学部教授の駒沢貞志、それに今は消息不明となった深倉広など帯中同期生が最初文芸誌を出そうと話し合ったようで、このうち、金沢、藤本が創刊の動きの中心になっていく。(文中敬称略)誌名をつけたのは駒沢で、最初藤本は「寒道」、岡田稔(東京で小説家となった八剣浩太郎)は「獏」、金沢は「三文」のそれぞれ案を出し、駒沢の「凍原」が選ばれたのだとか。こうした動きとは別に、なにせ戦後間もないということで、肝心の紙の手配をしていかなければならない。凍原を出せた背景には、上手く紙を入手したということが大きな要素としてある訳だが、その重責を担ったのは、編者注)634 第1部 社会・文化 第10章 地域からの情報発信
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