北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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帯中二期下の有田宏であった。彼の家の商売が紙屋ということから、そのルートが紙入手のパイプに使われて行く。といっても仲々大変だったようで、何回も東京に出たり、札幌へ出たり、とにかく〝神ワザ〟的な方法で紙は手に入った。そしてやがて東京の毎日新聞で記者をしていた小野寺俊一が疎開ということで帯広にやって来たということが、 いよいよ凍原の具体的な始動となった。金沢以下帯中同期生は20歳そこそこ。一方小野寺さんは奥さんも持ち、子ども2人を抱えた30歳。見識も主張も彼らとは一味違っていた。 「小野寺さん、よかったら僕たちの雑誌の編集をてつだってもらえないでしょうか」南総里見八犬伝のように、かくして4人の同人がめぐりあったのである。スタッフを見てみると、発行人は金沢隆志、編集人は小野寺俊一で藤本善雄、有田宏が編集同人となり、この〈中略〉ほか畜大教授の大江健などもこの動きの中に加わっていた。創刊号の目次を見てみると、彼らの他に、詩で岡田稔、伊知地隆、松岡正義、高橋建設社長の高橋博信、深倉広、批評、論文、小説などで渡部哲雄、のちに東京弁護士会副会長になった笹原桂輔などがいた。創刊号は84ページで、1000部が印刷され、21年12九州まで全国各地に送られ、地元帯広市の書店では、発活字に飢えていた時代、新しい価値観を捜し求めていた時代であるとはいえ、圧倒的な「凍原」の勝利だったのである。月10日印刷納本、鉄道弘済会のルートを通して、四国、売30分にして売り切れてしまった。(帯広市図書館所蔵)635     第4節 郷土誌からタウン誌へ

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