北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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〔インタビュー記録(抜粋)〕小内 なぜ、全国で最初にコミュニティFMを始めることになったのですか。西野 FMいるかは函館ロープウェイの一部門なんですよ。一九八八年に大型ロープウェイと展望台が開業したんです。それで「次の手は何か」と考えていて、函館山の上を見たらTVのアンテナがたくさん立っていて、「この立地を生かさない手はないな。これ〈一九九二年〉〔インタビュー記録〕対象者 るか社長(当時))、聞き手 二〇〇二年二月二〇日 「FMいるか」会議室西野鷹志(FMい小内純子、日時 小内 西野 からは情報化時代だな。」と思ったんです。周りからも言われました。当時、旧郵政省が民放FMラジオの二局体制を言っていて、最初は県域のラジオ放送を検討してみました。その当時、まだ北海道ではAIRい検討して、「まあ、手に負えるもんじゃないな」ということで諦めたんです。諦めたんだけど、棚上げしたんだけれども、その時の調査データ、蓄積した情報が役立つことになったんです。それでコミュニティFMということになっていくのですか。当時の政府が規制緩和を打ち出した。あらゆる面において。そのなかで放送においても地元からの情報発信が言われた。それについて書かれた日本経済新聞の小さな、米粒みたいな記事を見たときに「これだな」と思ったんです。直前にサンフランシスコに行って、写真が趣味なもんですから、友達の車に乗っけてもらった時、カーラジオをFMオートチュ第六節 コミュニティFM放送局の広が全国第一号「FMいるか」(函館市)の開局 り-643G︐しか開局していなかったから。一年くら第6節 コミュニティFM放送局の広がり17 

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