北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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ーニングしたらどんどんチャンネルが切り替わっていくんですよ。一〇何局くらいあったかな。小内 アメリカは多いですよね。西野 本当に多いんです。いわゆる皆ローカルメディア、ローカルラジオです。アメリカの場合は、クラシック専門局、ジャズ専門局、トーク専門局とか、みな特色がある。この時も、「これだな」と思った。それでサンフランシスコから隣のバークレーという大学街へ行って、街角にあったあまり綺麗でもない建物の一階にあったラジオ局に寄ってみた。入ってみたら手書きのタイムテーブルがあって、三人位でやっているわけですよ。DJはワンマンDJでした。小内 一九九〇年頃ですよね。西野 一九八九年かな。「あっこれだな」と思って、帰ってきて新聞記事を見たんです。それで、放送関連の技術に詳しい人に相談したら「面白いな」となって、「それじゃあちょっと役所に顔を出そう」ということになりました。小内 西野 小内 西野 〈中略〉九〇年と言ったらインターネットが入ってきて、むしろ外に向かう時代に、地域に向かうというのは面白いですね。足元から足元へね。皆が、隙間を狙ったと言うんだけど違うの。隙間じゃなくて空いていたんですよ。そこが空白だったんですよ。足元から足元へという情報が流れていなかった。北海道は広いから生活圏や経済圏が分かれていて、必要とされる情報があったのに流れていなかった。空いていたからこそ、それに対する意識が高まった時に、ダーと広まったんですよ、燎原のごとく。開局まではたいへんでしたか。NHKや民放放送局は大反対でした。小さいとはいえども足元を脅かされる存在になる可能性もあるわけですから。だから、開局当時の出力というのは〇・一Wになったんです。アマチュア無線が五~一〇Wですよ。いま二〇Wだから二〇〇倍になったの644第1部 社会・文化 第10章 地域からの情報発信

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