北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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他府県に比べ、生活改良普及員の人数も少なく、その活動を補完するために、一九五三年より、生活改善推進員制度が設けられた(一九六〇年代、生活改良普及員の数が確保されるまで設置)。一九五七年には、道衛生部がキッチンカー(栄養指導車)を一台配置し、冷害や凶作による農漁民の栄養低下に対して、開拓地や凶漁地帯を対象に、食生活向上にむけた調理法の巡回指導(実演、試食)を開始した。栄養指導車事業は、全国で一九五六~六〇年にアメリカ農務省の資金で運営されていたが、六一年には衛発第八六九号厚生省公衆衛生局長通知により、各都道府県知事あてに栄養指導車の運営指導があり、事業が継続された。栄養指導車は粉食や栄養のバランスのとれた食生活の普及に大きな功績を残したとされる。一方、北海道の学校給食は、一九四七年に開始された(脱脂粉乳とおかずによる給食)。一九五〇年には東京、横浜など八大都市において、米国寄贈の小麦粉によるパンを加えた完全給食が実施され、全国に範囲が拡大する。北海道の完全給食(パン・おかず・ミルク)は、一九五一年に小学校一八五校で実施され、学校給食を通して家庭及び地域社会の食生活改善に資することが目標とされた。北海道のパン製造は一九五五年以降、生活水準の上昇や食生活改善、学校給食の普及に伴って需要が増大してきたが、六五年以降は横ばい、微増を続けていた。軍向けの羊毛を生産するため、明治時代から政府が飼育を奨励、一九一八(大正七)年には「緬羊百万頭計画」を策定し、全国五か所(道内は札幌・月寒と滝川)に種羊場を開設して増産を進めた。食肉としての利用については戦前、陸軍の施設である糧秣廠が調理法を紹介するなど普及を図ったが、大きくは広がらなかった。第二次世界大戦後、羊毛の需要が減少してめん羊飼育に陰りが見えると、道は「羊肉の利用普及」を掲げて食肉重視の方針を打ち出し、滝資料2は、北海道立種羊場がめん羊肉の消費拡大を図ろうと一九五四年に発行したものである。めん羊は、主に陸道立滝川種羊場の活動652(2)   第1部 社会・文化 第11章 食文化・住文化

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