北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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㈢ 寒地住宅建設の夢本州の主要都市に比べれば、戦時中の北海道空襲はまだ少なかった。それでも二十年七月室蘭市他五十余市町村に空襲があり、全道で四千二百戸が全焼、三万三千人の被害者を出していた。加えて本州の各主要地の空襲により、本道に転入していた罹災者は、二十二年春までに六万人がおり、北海道の住宅事情は容易ではなかった。開拓使以来の住宅不足田中敏文伝刊行委員会『田中敏文を偲ぶ』北見山中の想いから一九八四年しかも、その上樺太、千島の引揚者の、ほとんどは本道定着が見込まれた。二十二年二月までに八百五十名の無縁故者が定着していたし、二十二年度は毎月一万人の引揚が予想され、その数はおそらく十万人を超えると考えられていたのだから、住宅対策は道としても緊急課題となっていたのは当然である。だが当時の事情は、資材の不足から不要不急の建築抑制のため、戦災復興院総裁の指揮監督を受け、地方長官が一切の建築物の建築許可権限をもっていたのである。道としては、土木部建築課がその対策を立てていたが、二十一年十月~十二月までに住宅(共同住宅を含めて)新築は三十戸、既存建物を改造し住宅用としたもの四百八十五戸というように情ない状況であった。こんな住宅事情の中で知事は、まず引揚者への住宅供給のため、月寒にあった第二十五連隊の兵舎など、全道域にあった旧陸軍の兵舎を改造し住宅化に取り組み、どうにか次々と増える引揚者、復員者の住宅確保に努めた。しかし、田中さんはそんなことで満足はしていなかっ【住文化】第一節 戦後の住宅政策のはじまり9 田中知事の寒地住宅政策〈一九四七年〉688第1部 社会・文化 第11章 食文化・住文化【住文化】   ―  (1) 

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