北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
721/1232

法」と略す。)が制定されたことでしょう。この法律は、昭和二六年に建設省から出向された木子清忠住宅課長が中心となり、建設省や国会に働きかけて実現したものです。その経緯については、木子さんをはじめ関係の皆さんが三〇年誌、四〇年誌などで回想しています。また、木子さんのときに道営住宅事業がスタートしたことも特筆すべきでしょう。谷部長は、昭和二八年一一月に建設省建築研究所の企画課長から赴任されました。当時すでに工学博士の学位を取得しておられ、議会筋からも学者部長ともてはやされたりしました。翌二九年九月二六日、あの洞爺丸台風ともいわれた大暴風によって、岩内町域の八割を焼失した大火災が発生したのです。その翌々日、谷部長に随行してトラック数台に応急材料を搭載し、稲穂峠を超えて     煙りくすぶる焼跡を一望したときの驚きは忘れることができません。住宅課長は、やはり建設省から出向の後藤典夫さんになっていましたが、直ちにブロック造の災害公営住宅九〇〇戸を二カ年で建設することを決定しました。そのうち二〇〇戸を先達として道営で着工し、被災後ほぼ半年で入居に漕ぎつけました。谷部長の業績の一つとして、道立寒地建築研究所の設立が挙げられます。この寒研が去る昭和六〇年に創立三〇周年を迎えたときに「寒研30年のあゆみ」を刊行し、多くの関係者からそれぞれ回想が寄せられています。私も三〇年代の後半に約四年間寒研に勤務した経験があり、行政との関連の重要さを身をもって感じたものでした。さらに当時の田中敏文知事に対し、寒住法の制定、研究機関の設置など、一連の「寒地住宅の普及」というタイトルで昭和三〇年度日本建築学会賞が贈られました。小宮部長は、昭和三二年四月に建設省の建築指導課長から出向され、前任の谷さんからの構想を引継いで真駒内団地の開発事業を軌道に乗せました。真駒内団地のマスタープランは、小宮さんと同期で著名な高山英華東大教授の指導により策定されたものです。また、昭和三〇住宅団地の開発705第4節 住宅都市部と郊外型大団地の誕生

元のページ  ../index.html#721

このブックを見る