北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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の状況を伝える記事である。瀝青会は公募展形式を採り、第一回展から六名三〇点が出品された。や、いわゆる読売アンデパンダンなど、無鑑査をうたう美術団体が相次いで誕生した。北海道において、一九四六年、いち早く誕生したのが旭川の本展である。発足時は、後に旭川市長、内閣官房長官となる五十嵐広三ら、若手美術家が中心的なメンバーであった。この回から「写真の部」を新設、後に北海道の写真運動を牽引する掛川源一郎らが参加している。また、前衛グループ「黄土」を結成した若手作家が参加するなど、前衛的な傾向をも示すようになった。一九六六年で幕を閉じたが、この展覧会に参加した若手美術家の多くが、続く七〇年代の北海道の前衛的な美術運動を担った。五六年、「アンデパンダン的な美術運動」を目指し、全道規模の公募展として創立、同年八月に第一回展が開催された。この時点で北海道には道展と全道展という既存の公募展が存在しており、新道展はそのアンチテーゼとして結成された。その結果、道内規模の公募展が鼎立することとなり、またいずれの展覧会も地方自治体などが運営に参加していないという、全国的に見て珍しい状況を生んでいる。本資料は道展の創立会員だった今田敬一の残した資料から見つかっており、対立する他団体の中心的存在だった今田に、新道展の内部文書が渡った経緯を考えると不可解な点資料3は、炭鉱町の美術運動の例として、北海道炭礦汽船夕張に勤務していた三名が、「瀝青会」を結成した当初資料4は、北海道アンデパンダン第一六回展目録である。戦後、民主主義的な動きに従って、日本アンデパンダン資料5は、新北海道美術協会(新道展)結成直前に編まれた規約草案の原稿と思われる資料である。新道展は一九北海道アンデパンダン(旭川)新北海道美術協会創立と展覧会開催716第1部 社会・文化 第12章 美術・文学(4) (3)    

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