も多い。る。この頃全道規模の公募展が鼎立するなど美術界の動きは盛んになった。こうした動きを受け、一九六一年、道内の教育研究施設、美術団体、マスコミなどの関係者によって道立美術館建設期成会が設立するも進展を見なかった。展をきっかけに、その妻節子が道に遺作の一括寄贈を申し出た。これを受け、一九六七年、旧図書館を改装する形で北海道立美術館が開館、その一〇年後の七七年、新たに本格的な美術館として北海道立近代美術館が建設された。一(大正一〇)年に設立された赤光社は、函館において長く公募展を開催、多くの美術家を育むなど、函館の美術運動を長く担ってきた。一九五〇年には団体として函館市文化賞を受賞、地域の美術史をテーマとした展覧会を開催するなど活動を展開してきた。一九七一年には「五十周年記念 美術家を紹介した。資料6は、北海道における美術館設立運動が起こった当初の一九六〇(昭和三五)年の動きを伝えた新聞記事であ資料7は、その後の実際の美術館開館の動きを伝える新聞記事である。一九六五年、札幌での故三岸好太郎の回顧資料8は、函館の美術団体、赤光社が刊行した函館近郊の美術史をたどった書籍から抜粋したものである。一九二資料9は、赤光社が函館市に対し美術館建設請願運動を展開した際の署名用紙である。同会は一九七五年より三年赤光社美術協会(函館)と美術館設立運動絵画史展」を開催、江戸時代からこの地域で活動した第二節 美術館設立運動717解 説 (2) (1) 「北海道美術館」設立運動
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