記」である。当時、北海道の国文学研究を覆っていた重苦しさが垣間見える。以後同誌には小森陽一、松木博、石川奈保子、佐藤公一、千葉孝一、井上諭一、田中厚一らが寄稿している。一良。資料18にも通ずることだが、発起人たちの認識として、北海道で文学活動をしている人たちの間に、対立とまではいわなくとも、分断があり、「相互交流の活性化」を図るべきではないのかということであった。発想の根源には、会の名にもある「近代文学」があったが、視野に入れていたのは、より広い領域であった。とはいえ、この活動が継続してゆくことはなかった。話会の設立に至る経緯が、かなり直接的な表現で述べられている。長らく引きずってきた、「北海道文学」の理念を巡る対立が背景にある。(昭和四三)年一月の創刊以来、北海道の文学運動を牽引してきたが、時代の流れと経済的不如意に打ち勝つことはできず、本号で事実的終刊を迎えた。編集を担ったのは、小笠原克、沢田誠一、鷲田小彌太、川辺為三、森山軍治郎、工藤正廣であった。執筆者は、熊谷政江(藤堂志津子)、佐藤泰志、高山亮二、杉村暎子、桃谷保子(方子)など多士済々。「風見鶏」という文芸時評欄を持ち、「同人誌とも商業誌ともつかない」存在だったが、自ら「北海道文学」の頂点と自負してきたことは批判の対象でもあった。資料18は、北海道大学文学部国文学講座の助手、大学院生、研究生、卒業生が創刊した評論研究同人誌の「編輯後資料19は、一九九四(平成六)年六月二五日に設立された北海道近代文学懇話会の発会趣意書である。執筆は平原資料20は、江原光太の個人編集誌『妖』の創刊号に掲載された覚え書きである。資料19にある、北海道近代文学懇資料21は、『北方文芸』三五〇号の「あとがき」である。執筆は工藤正廣。月刊文芸誌『北方文芸』は一九六八第三節 様々な意匠721解 説
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