北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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音だ。引き受けてくれたのは、私たち三人を含め、二十九人。やや、こちたいかもしれぬが、記録としてとどめておきたい。敬称は略する。いまい・いたる、岩川正樹、小澤次郎、小田島本有、片山晴夫、加藤康子、川端研、北村巌、工藤左千夫、桒原丈和、斉藤浩、斉藤友宏、篠原昌彦、柴橋伴夫、柴村紀代、鈴木勇生、関谷博、武田雅哉、舘下徹志、立花峰夫、田中厚一、種田和加子、千葉孝一、中澤千磨夫、中島洋、中舘寛隆、中山昭彦、平原一良、松居友。そも、なぜ私たち三人が、という点について言及せねばなるまい。私たち三人は、皆、北大文学部国文研究室の出身であるが、学生時代、研究室での接点はない。私は、一九七六年から十五年間、研究生・大学院生・助手として研究室に籍を置いたが、立花さんとは、その間知り合いになり、共に、『異徒』創刊同人となった。平原さんと初めてお会いしたのは、今から六年前、一九八八年夏のこと。日本近代文学会の北海道地区と東北地区の〈中略〉合同研究集会に参加するため、山形へ赴いた際、駅前のバス停で、神谷忠孝さんから紹介された。日本近代文学会の東北・北海道の集会は、一九七二年、小笠原克さんと相馬正一さんが中心となって函館で開かれた、北海道支部・青森支部の合同研究会より始まり、以来毎夏、津軽海峡を行ったり来たりしている。第一回の時から、東京の神谷さん、保昌正夫さんも参加しているから、東京から大挙参加という現在のこの会のスタイルは、当初から確立されていたことになる。(事実関係については、小笠原克『北海道風土と文学運動』一九七八・一、北海道新聞社を参照した)私自身は、一九七七年の弘前での集会から参加し、以後大体は顔を出している。弘前では、竹内好について発表したのだが、集会の数ヵ月前、地下鉄南北線の中で、神谷さんから発表するようにと慫慂されたのを、昨日のことのように思い出す。立花さんは、その少し前から精勤していたはずだし、平原さんは、山形以来皆勤である。この会の主スー役は、なん〈中略〉 タ 第1部 社会・文化 第12章 美術・文学【文学】760

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