北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
885/1232

9 校長先生はさいわい私の恩師であったわけですが、そういうような関係もありまして、なんで他の学校も中止になっておるのに、こんな争いしてまでやる必要ないんでないすかというようなことで、いろいろ校長と話ししたら、それじゃ、もうやめましょうということで、最後は永山中学だけだそうだ、こういう話になりまして、それでは最後であれば、ただちに私も永山中学に行って、雨粉中学で一時間やったあと中止してもらった経験、いま申し上げました聖園での倉島校長との話合い、そういうものを基礎にして、永山に行って、斎藤校長と会って、これも中止してもらえる自信に燃えて車で永山中学に向かったわけです。永山中学に着いたら、宣伝カーでみなさん、ご苦労さんですということを言ったわけですが、私が北王製油出身でございますから、うちの組合員の秋葉が来まして、局長、斎藤校長が貧血で倒れたのだと、私に言っておりました。〈中略〉〈中略〉教職第一五○六号平成二○年一二月二六日 各各道立学校教育局長様 昭和四六年一二月一五日に、北海道教育委員会教育長と北海道教職員組合中央執行委員長との間で締結された協定書の廃止について〈一九七一年以降〉北海道教育委員会「協定の廃止について」(昭和四○年三月二四日 各市町村教育委員会教育長北海道教育委員会教育長  協定書の廃止について(通知)(北海道立図書館所蔵)二○○八年旭川地裁)長 吉田洋一 869第2節 教育運動・教育政治

元のページ  ../index.html#885

このブックを見る