北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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そして「さらに前進を」ということで、私は札幌北斗高校を退職し、鈴木秀一氏は北大から札幌学院大学教授に転職して、所期の目標を実現すべく取り組みを進めることになった。一九九○年の四月のことだった。三十年間勤めた札幌北斗高校を退職し、新教研事務局長という立場で頑張ることになる。(尤もこの専従職員という点ではその後「余市教育福祉村」を開いた菊地大先生が先人だった。かれは小学校の教師だったが、退職して新教研に専念していた。一九八六年に開いた最初の事務所は北三条西十一丁目の第三加森ビルの三階の一室)。九○年に菊地さんは余市で「教育福祉村」を開くことになる。菊地大さんの後任として、新教研事務局長の任につい      アカシアビル四階。ワンフロアを借りることになった。たのが一九九○年四月。事務所は北二十一条西四丁目のこういう事務局体制を運営するために、二○○数十名の会員の皆さんに募金を呼びかけた。しかし勿論それだけでは足りず、私は退職金のほとんどをこの活動につぎ込むことになった。北二十一条の事務所は新教研の事務所であるとともに、私の生活を保障する活動という意味もあって「いきいき教室」という学習塾を兼ねることになった。講師として北大の学生たちが協力してくれた。このころ、私たちのめざす新しい学校をつくる場所として夕張市をはじめいくつかの自治体と協議する機会をもった。私たちの学校名を「札幌自由が丘学園」と言うことにした。これは、今東京にある「自由ヶ丘」がかつて手塚岸衛さんという人がつくり出した自由ヶ丘学園の跡地であり、この意義ある学校を北の大地であらためて顕彰していこうという趣旨をもっていた。一九九三年十月一日、私が責任者となった「フリースクール札幌自由が丘学園」を北二十一条のアカシアビルで開くことができた。集まった子どもたちはこの時は六名。しかし数か月で生徒数は二十名前後にまで増えた。〈中略〉フリースクールに託した夢874第2部 教育 第3章 教育条件整備・教育運動

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