北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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スタッフも、常勤者として今は亡き柴田宏樹さん(元小学校の先生)の二人。ボランティアスタッフが北大の院生など二名がかかわってくれた。その後、田村慈さんや杉野建史さんが加わってくれた。自由が丘運動の基本形が定まった。ここでの運営取り組みを行いながらも、スタート間もなくいろいろな問題が出てきた。同じビルの利用団体との関係が主たる問題である。そういう事情が重なる中で、学校設立運動のセンター(兼教室)を移転することにした。「北十六条教室」と呼ぶ一軒家である。古い木造二階建ての建物だったが、丸ごと使えるということでスタッフも生徒も含めてそれまでよりははるかに安心できる条件をつくることができたといえる。フリースクールを求めてくる子どもたちは、当初中学生よりもむしろ中卒者が多かった。このいわば私たちが身銭を切って取り組んだフリースクールの運営と活動は、次第に社会的な支持を受けるようになった。当初、「不登校」の子どもたちは「社会的不適応」のレッテルを貼られる傾向があったが、「不登校の子どもたちの居場所と学びの場」をつくっていこうという取り組みは次第に教育界で「市民権」を得ることができたといえる。文科省は「不登校に関する実践研究事業校」としてフリースクール札幌自由が丘学園を認定した(二○○五年から十三年まで)ことなどもあって、フリースクール運動が公的にも評価されるようになったと言える。(北海道立図書館所蔵)875第2節 教育運動・教育政治     

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